孝明天皇崩御の真相

1866年(慶応2年)12月11日、宮中内侍所(ないしどころ)にて、臨時の神楽祭りがあった。
折から天皇陛下は風邪気味であったが、無理を押して、臨御なさった。高熱を発したのは、その晩からである。
同月12日、典医高階典薬少允(しょうじょう)が拝診し、発汗剤を調献したが、
翌13日に至っても、薬効がなく、高熱と頭痛のために、夜も眠れず、うわごとを漏らされ続けた。
翌14日には、山本典薬大允(だいじょう)が拝診、下剤を調献したが、依然として、熱は下がらず、便通もなかった。
15日も高熱が続き、再び下剤を調献し、ようやく便通があった。
16日にはひきつづき発疹が顕著になり、典医たちの診断も疱瘡ということで一致した。夕刻には便通が尋常になり、熱も下がり始めた。つまりは疱瘡ではあるが、その経過は至極順調であったのだった。
17日には、典医の名前で、診断の結果が発表され、京都守護職所司代等にも伝奏が成された。
18日には発疹は更に多くなり、病状は順調であることが分かった。
19日、典医の報告には、「昨夕より痘の色が紫になり、及び毒を抜く薬を調献した、夜中も御安眠なされ、御便通もよろしく、お食も雄進みになり、お粥を召し上がられた。御順症で、まずまずご機嫌よろしく遊ばされた」
二十日には一段と食欲が増し、便通もしばしばあって、典医たちも御経過申し分無しと愁眉を開いた。
21日、天皇陛下熟睡。静謐。水疱化した丘疹から排膿し始め、経過は愈々順調となった。
22日、排膿順調。顔や手足の腫れも引いて、熱はほとんど平熱近くにあった。
23日、膿は出し切って、痘疱は乾燥し、かさぶたが出来始めた。食事の量も更に多くなり、典医高階典薬少允は、膿の収靨を明日から行うと発表した。
24日、前日より食欲、排便共に良好。
しかし24日の夜、順調に回復していた病状が、俄に一変する。
典医の報告「夜に入って、御発熱、御吐き気ありて、御召し上がりもの悉くお返し(吐く)あそばれ、夜中御排便三度」
25日、危篤状態で、睦仁親王(後の明治天皇と言われる)のお見舞いが異例ながらあり、准后、側近らが枕頭につききり、宮中は悲嘆の色に染まった。
25日昼、火急の招きで、護浄院の湛海僧正が参内した。
同日、10時ごろより、胸元に劇痛を訴えなされ、典医たちが極力手当てを尽くしたが、悪化する一方で、
凄まじい形相で苦しみ悶え、「御9穴から御出血」つまり両眼、両耳、口、鼻腔、肛門から噴血して、悶死した。崩御
26日には、摂家及び大臣、伝議両奏から、摂政宣下の議、幽閉之堂上赦免の議(いわゆる岩倉具視ら:討幕派の参内の許し)他四件が、既にこの世にないはずの孝明天皇陛下に奏上して、勅許を得た。