神祇官の歴史

1868年(慶応4年)3月13日、鳥羽伏見の戦いから、まだ二ヶ月しかたっていないこのとき。
律令制度下の国の役所であった神祇官を復活させるという案が、新政府(薩長土肥藩閥政府)側から出された。

同月、神仏分離令も出され、神社から仏教と紛らわしい要素を排除するように命じられた。
具体的に言うと、日本古来の思想である本地垂迹説に基ずく神宮寺の廃止など。
廃仏毀釈運動への火をつけることとなった。

同時に宮中でも、廃仏が始まる。天皇家は、中世、近世を通じて真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)の檀家であり、勅願所としても用いていた。法親王として出家者を門跡寺院に送り出すのは、通例となっていた。
新たに神道の宗家となるために、そうした長い伝統に別れを告げたのであった。

1870年(明治3年)「大教宣布の詔(みことのり)」が出され、天皇崇拝中心の急ごしらえの神道協議が出来上がった。そして神道教義を神祇官に布教させる方針が決められた。

1871年(明治4年)には、神社は全て「国家の宗旨(そうし)」(国家公共の祭祀施設)である事の
太政官達(たっし)が出され、神社の公的性格が確定するとともに、官幣社国幣社から始まって、府県社、郷社、村社、無格社に至るまで、社格制度が整備され、
地域の小規模な神社に多かった民俗信仰的な祭神を記紀神話に基づく、国家的祭神に差し替えることなどの操作が行われた。伊勢神宮が全国の神社の本宗と定められ、民間の自由な信仰をそぎ落とした。

その後、歴代の天皇で事績が顕著なものや、南北朝時代の忠臣など祭る神社が新しく建造されるようになった。