勝海舟と西郷隆盛の会談

山岡鉄太郎(鉄舟)の尽力で、京都政府軍と徳川家はパイプが繋がり、

3月13日、14日に、勝安房、西郷吉之助で会談がもたれることとなった。
場所は、芝田町の薩摩藩邸内であった。

3月13日
後宮和宮)の進退。一朝不測の変を生ぜば、如何ぞ其の無事を保たせる奉らん哉。此の事易きに似て、其の実甚だ難し、君等熟慮して、其の策定められむには、我輩も宜しく焦慮して、其の当否を慮らんか、戦いと不戦と、与と廃とに到りて、今日述べる処にあらず、乞う明日を以って決っせんとす。

3月14日
我西郷に申し云う、大政返上之上は、我が江戸城は、皇国之首府哉、且つ徳川氏数万の禄地を保つ所以のものは、幕府の入費に充てむが為なり、此の二つは、宜しく大政と共に其の御処置如何問うべきなるべし。況や外国交際の事、興りしより、其の談ずる所、唯徳川氏の為にあらず、皇国之通信にして、我が私にあらず、印度支那の覆轍、顧ざらんや、今日天下のため首府にて、我が家の興廃を憂いて一戦し、我が国民殺さんことは、寡君決して為さざる所、唯希う所、御処置公平至当を仰がば、上天に恥ずる事無く、朝威是より輿起し、皇国化育の正敷を観て、饗応瞬間に全国に及び、海外是を聞いて、国信一新、和信ますます固からむ、是の意我が寡君独り憂いて、臣輩不解の所と成り云々。西郷申していわく、我一人今日是等を決するに能わず、乞う明日出立して、総督府に上言すべし、亦明日進撃の令あれども解いて、左右の隊長に令して、従容として別れる。
亦彼が傑出果決を見るに足れり、嗚呼伏見の一挙、我過激にして、事を速やかにして、天下人心之向背を察せず、一戦塗地、天下洶洶(きょうきょう)として、定まらず。薩摩藩1・2の小臣、上天子を挟み列藩に令して、出陣迅速、猛虎之群羊を駆るに類せり、何ぞ其の英雄成る哉。
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安房はこの会談にて、
慶喜は隠居の上、水戸に慎む」
江戸城は明け渡すが、明日田安中納言に預けて欲しい」
「軍艦・軍器は、そのままにしておき、いずれ寛典の沙汰があった時、官軍と幕府とで分け合う」
慶喜の暴挙を助けた者も、格別な寛典を賜りたい」
と、決定した。
西郷は、側に控えていた村田新八中村半次郎に「明日の攻撃はやめる」と告げた。

3月15日とされていた江戸城総攻撃は、中止され、市街戦は回避された。